うそつきの客 / ユキマさん

 初めてその邸宅へ足を踏み入れた時の懐かしさを、僕は上手く言語化する事ができない。

 そこへ立ち入ったのは初めてであるはずなのに、ようやく帰ってこられたのだとすら感じる。

 これは非常に奇妙で、非合理的で、それ以上に、悪くない感情だった。

 

 しかし、この情動は今回の仕事には要らない。

 僕は私であり、私は彼らではない。

 私は扉をノックする。いつものように。

 この珍しく平穏に続いてきた日々がもうじき終わるのを、この場では私だけが知っている。

 

 

『おはようございます、サイト様。本日もお手伝いに参りました』

「やあ、キユウさん。今朝も早くからどうもありがとう。温かいお茶はどうかな? ちょうど昨日、懐かしいティーセットが出てきたんだ」

『サイト様。我々の仕事を取ってしまわれては困りますよ。お茶を淹れたり、お掃除などは使用人の仕事です』

「ふふ、ごめんなさい。でも二人でやったら楽しいし、早く終わらせる事だってできるでしょう。お仕事が済んだら、たくさんキユウさんのお話も聞けるだろうし。それと」

 家の中へ招きながら、邸宅の主である人形はゆったりと微笑んだ。

「私の事はサイトと呼んで欲しいな」

 カーテンは全て開かれている。窓硝子から透けて入って来る朝陽は柔らかく、サイトの笑みに繊細な陰影を落とした。その柔らかさに思わず、執事は目の前の相手が自分と同じ人間であると錯覚しかけた。

 ほんの一拍。けれど重要な沈黙をひとつ置いて、執事は少し角ばった字で応じる。

『主人を敬わない訳には参りません』

「……親しみを交わし合うのと、敬うかどうかというのは別だと思いますよ?」

『違っていたとしても、ふたつの境界はとても曖昧です。私は仕事のためにこちらへお邪魔しております』

 執事の筆跡はいよいよ硬く、ぎこちなくなった。

『あなたは敬うべき貴人であり、親しみはあなたと私の上下関係を限りなく平らなものにならしてしまいます。仕事に支障が出て、あなたに失礼を働いてしまうともわかりません』

「そう。……あなたが話してくれた心配ごとは全部、私達が友達同士であったならなにも問題は無い事じゃないかな」

『サイト様。私はあなたの生活を助けるために、ある方から頼まれて派遣された使用人です』

 その【ある方】の名前はサイトにとって馴染み深いものである。その信頼関係は、見ず知らずの使用人が突然扉を叩いてやって来たにも関わらず、一度に相手から警戒心を払拭するに足る強固なものだった。

 サイトは口を噤み、穏やかに沈黙する。ブリオニア邸の居間へ至るまでの廊下には、執事が手帳の余白へペンを走らせる音だけが忙しなく響いた。

『現段階では、我々の関係はただそれだけのものです』

 

 筆記の音が途絶えると、にわかに耳へ聞こえ始めたのは柱時計の音だった。振り子が行き来し、時を刻んでいる。

「じゃあ、キユウさんは早くお仕事を終わらせないといけないですね」

 今まで互いに向き合って会話をしていたが、不意にサイトは踵を返して背中を見せた。何気ない先導の合図、相手はこの不穏な様子の執事に少しも危険を感じていない。

 より正確に言うなら、危険を感じていないと思わせるように振る舞っている。

 事実、ここで何をしようと、多分相手は決定的な瞬間まで抵抗しないだろう。今日まで積み重ねてきた時間は、互いが持つ秘密の過去を明かし合うまでには至らない短さだったが――街中で見かけたら、例えそこがどんな雑踏でも名前を呼べるし、ちょっと長い立ち話をしたいと願ってしまう程度には情が移っていた。

 

 だから。

 執事は、自分の仕事を果たすのは不可能だと判断した。

 急いで境界線を明白にしようと躍起になるのは、それがもはや意味を成さないものになりつつあるのを自覚しているからだ。

 私達は一度も足を踏み入れた事のない、無名の星が彼方で消え去ってもなんとも思わない。

 自分とは何の繋がりもない星より、時に私達は、たった一杯の温かい紅茶を愛するものだ。

 

「――本当は知っていたんです」

 サイトは振り返らない。

 無口な執事が音も無くその場を去っていたとしても、実在と不在の是非を目で確かめようとはしなかった。人形は穏やかに語る。

「キユウさんの言っていた掃除の意味が、私が思っているお掃除と違っているだろう事も。ここ暫く、ブリオニア邸に旅人さんが一人も来ないのも。多分……貴方が嘘をついている事だって」

 嘘を、という所でサイトは小さく笑った。思いがけず綺麗な小石を拾ったような、そんな明るいものだった。

「キユウさんは綺麗好きで、嘘があまり好きじゃないんだな。うん、だから、きっと。次に会えたら、友達になれる」

 

 執事はやって来たのと同じ唐突さで、すっかり行方を晦ませていた。

 時計の鐘が正午を告げる頃。顔馴染みの旅人が慌てた様子で駆け込んでくる。

 それから、お屋敷にはいつもと同じ時間が流れ始めた。

 

 

 創作サイト『巣鳥館』開設5周年企画

 コラボSS『うそつきの客』

 サイト・ブリオニアさん(原作者 雪間 晴さん)